「出る杭は打たれ」続けるのか/鵜飼良昭(事務所だより2019年8月発行第59号掲載)

*『出る杭は打たれる』

 今私の手元に『出る杭は打たれる』(岩波現代文庫、2002年)という本がある。

 著者は、アンドレ・レノルというフランスの神父さん。アンドレさんは、労働司祭になるため職業訓練を受け、フライス工の資格を取って1970年に来日した。1991年5月に離日するまで21年の大半を、川崎の下請け零細企業で労働者とともに働き生活した。そして、自ら労災事故にあったり労働組合を作ったりした。
 アンドレさんの当初の目標は、労働者の生活の実態や精神構造を彼らの懐に入って理解すること、であった。
 そしてそこで実際に体験したものは、先進国日本を底辺で支えている労働者が法律無視の過酷な状況に置かれている実態であった。中小零細企業は元請けや大企業からの無理な注文を断ることができず、それが労働者にしわ寄せされる。人間としての自由や生活とは両立できない長時間残業、時には無給のサービス残業。アンドレさんは仲間の労働者に、「なぜ法律で保障されているように残業を拒否しないのか」と問う。すると労働者は「アンドレさん、残業をやらないと日本人にはなれないよ。」と答える。 
 アンドレさんが、フランスの労働者は人間らしく働き生活するために8時間労働を闘い取ってきたことを語る。「それなら、俺たちはもう大丈夫だな。経済戦争に勝つぞ。」
 労働者の忠告はこうである。「波風を立てて目立ってはいけない。あからさまに異議を唱えてはいけない。これは不文律で日本人は必ず守らなければならない。都会に出かける息子に母親は「長いものには巻かれろ」と言って聞かせるのだ。」

 アンドレさんがある会社に入り5年が過ぎ組合結成の動きが始まった頃、親友であった労働者が退職した。この労働者は、教養があり自分の生活をきちんと確保するタイプで、アンドレさんと波長が合った。アンドレさんにとっては、職場環境の改善を話合える貴重な仲間でもあった。その彼が退職を決意したときにアンドレさんに言った。
 「日本の諺に言うでしょう。出る杭は打たれるんです。」これが本のタイトルとなった。
 しかしアンドレさんの視線は、このような環境の中でも、人間としての尊厳をまもるために頭を上げて立ち上がる少数の人たちの闘いに注がれる。「未だ未だ希望はある。世の中は変わりうる。あらゆる人を愛し敬う心を備え、経済と政治を変革し、現代における新しいモラルを創造しうる人間、そういう人間はどこにでもいるのである。私は実際にそういう人々と出会い、心を動かされてきた。」

*「『職場のいじめ』の構造と課題」

 アンドレさんの本の「5裁判」の項に少しだけ触れられている「若い弁護士」は実は私である。
 私は、アンドレさん来日の2年後に労働者側弁護士として仕事を始めた。そして2年後に遭遇したのがK工業の争議である。
 K工業は神奈川でも有数な有力企業であるが、職場では労基法違反や労働者の権利侵害が放置されていた。そこで現場労働者に絶大な信頼があったOさんを中心に組合が結成された。
 これに対し会社は組合役員との面会を拒否、組合否認の文書を全従業員に配布、そして係長・主任らが「職場を守る会」を結成、ありとあらゆる脱退工作が繰り広げられた。日々脱退届が委員長の元に届けられ、結成時100名を超えていた組合員数が一気に14名に激減。この脱退工作の熾烈さを象徴するのがH書記長に対する集団リンチである。朝出勤したH書記長を20数名の守る会メンバーが取り囲み、腕、毛髪等をつかみ地下のボイラー室に連行。会社を辞めろと怒鳴り、腕をねじ上げ押倒し蹴りつける、たばこの火を顔に近づける等の暴行を2時間にわたり続けた。翌日も同様に地下に連行し、前日を上回る暴行を加え、ついに退職届にサインをさせた。それは、一旦解放された書記長を追尾して路上で捉え再び地下に連行するという執拗なものであった。
 この惨状を目の当たりにして、私は日本の社会を支えている労働の場に、法や人権が根付いていない現実を、嫌と言うほど突きつけられた。その後も、少数者の孤立した苦難の闘いに数多く取組んだが、それはこのような企業社会が益々強固となっていくようにすら思えるものであった(その一つが本書で取り上げられている)。
 そのような私の思いを決定づけたのが、93年2月から始めた労働弁護団の「労働相談ホットライン」である。ホットラインの日は電話が鳴りっぱなし、責任者であった私は休日や夜も自宅で電話を受ける状態であった。今でも耳に残って離れないのが大手音響メーカーの営業部長Aさんの電話である。退職勧奨を断ったAさんは地下室に机一つで移された。朝出勤すると同僚から離れ一人地下室でぽつんと机に座って1日を過ごす。「家族への思いと人間としての意地」で退職届を出さず頑張り続けたが、ついに限界に達し7ヶ月目になって退職届を出した。「同じ目に遭っているのは私だけではない。このホットラインを1回だけで終わらせないでほしい。」
 私は、アンドレさんがいう労働の現場で「人間としての尊厳をまもるために頭を上げて闘う者」を励まし支える社会の仕組みや運動、それに西欧では当たり前の働くためのルールと迅速適正な紛争解決システムの必要性を痛感した。ちょっとした勇気で立ち上がることができる条件がなければ、法の支配や民主主義は絵に描いた餅でしかない。97年に自分なりの問題意識と課題を整理するためにまとめたのが「『職場のいじめ』の構造と課題(1)(2)(3)」(法学セミナー97・4~6)であった。
 私の願いは10年後、労働審判制度となって結実した。

*13年目に入った労働審判制度

 今年の6月1日に労働審判員連絡協議会第3回シンポが開かれた。最高裁の報告で、労働審判と労働訴訟の合計が平成30年に7126件(前者3630件、後者3496件)と過去最多となった。この間一般の民事訴訟が減り続けているのに比較して際立っている。今や労働審判制度は、個別労働紛争解決の中核となった。
 次いで、佐藤教授(東大社会科学研究所)から、2018年労働審判制度利用者調査の結果が報告された。2000年の司法制度改革以降、利用者調査が民事訴訟で4回、労働審判制度で2回(2010年と2018年)行われている。
 2006年の民事訴訟調査では、10の事件の種類(金銭、商品、交通事故、家事など)の中でも、労働事件は最も評価が低く最下位であった。ところが2010年の労働審判調査では、労働審判は労働訴訟に比べて格段に高い評価となった。ただ、中小企業使用者の評価の低さが注目されていた。
 それが今回の調査では、労働者側の高い評価は変わらない一方で、使用者側の評価が改善され、特に中規模企業の改善が目立った。そして、労働審判を契機としたコンプライアンス(法令順守)の重視や人事管理の見直しが増加している。
 私は、今回の調査前、密かに危惧していたことがあった。
 それは、制度発足時の弁護士・裁判官(特に労働側弁護士)の間にあった熱い使命感や情熱が徐々に薄れ、事件処理がマニュアル化・ルーティン化して労働者側の評価・満足度が低下しているのではないか、という危惧であった。今回の佐藤教授の報告は、データ集積から間がない中間報告であり、いずれ出される総合的な分析結果が待たれる。しかしその結果がどうあれ、私はこのレベルで満足して踏み止まってはならないと思っている。それは、年間何十万件という労働者からの相談は決して減ってはおらず、むしろ内容は深刻化している。しかし、労働者が裁判に立ち上がる件数は依然として西欧諸国に比べ一桁、いや二桁少ない数に止まっている現状は変わっていない。
 法を社会の隅々にまで行き渡らせるという司法制度改革の理念は、まだまだ一歩を踏み出したばかりなのである。

*「出る杭は打たれ」続けるのか

 このシンポで佐藤教授が最後に述べたある調査結果は勇気づけられるものであった。これは、無作為抽出した全国の市民を対象に、過去5年間に自分や家族が経験したトラブル経験の有無などを調査したもの。
 その中で、トラブル経験有りを回答し、さらに重大トラブル経験を回答した者のうち、「職場のトラブル」を選んだ者が20.6%(10年前7.2%)、とりわけ稼働年齢層である65歳未満を取ると「職場のトラブル」が約3分の1(33.6%、10年前7.7%)を占め、他のトラブル(家族・近隣・金銭等)を引き離し断トツの1位となった(10年前は7位)。
 私の第一印象は、ついに日本の労働者が、法や権利が無視される職場の現状を「トラブル」と意識するようになったのか、であった。いつまでも「出る杭は打たれ」続けるわけにはいかないのではないか。
 先日、O委員長の偲ぶ会で45年ぶりにK工業争議の仲間と再会することができた。H書記長は、10年近くK工業でスキルを磨き故郷に帰って会社を経営している。「争議経験のおかげで労働者に厳しいことがいえないよ。」と笑っていた。M君はK工業で定年まで勤め上げ、Jさんは生き生きと地域活動の話をしてくれた。打たれ続けて強くなった杭は、経験の種をまきそれは着実に芽吹いていた。
 今私は、「人は情熱なしには生きることができない」というアンドレさんの言葉を前にして、自問自答している。