過労死等防止対策推進シンポジウム/野村和造(事務所だより2019年8月発行第59号掲載)

 全国過労死を考える家族の会の人たちの大変な努力の中で、超党派で過労死等防止対策推進法が成立し、2014年11月1日から施行されました。そのもとで、厚生労働省主催の過労死等防止対策推進シンポジウムが各地で毎年開かれています。
 昨年11月の神奈川でのシンポジウムでは、岡田康子さんの「パワーハラスメントを防止するために」と労働安全衛生研究所の高橋正也さんの「働く人はぐっすり眠らなければならない」の講演がありましたが、九州からいらしたAさん(家族の会)の発言は、特別に心に残りました。
 ご本人の承諾を得ましたので、ご紹介します。

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 私の夫は今度の過労死白書でも取り上げられた教員でした。2002年(平成14年)1月の寒い夜、打ち合わせ中に、高血圧性脳出血のため倒れました。まだ41歳の働き盛りでした。
 そして、それから15年の間、一度も意識を回復しないまま、昨年(2017年)3月3日静かに息を引き取りました。
 夫は福岡県県立高校の英語教師でした。教師の仕事にやりがいと誇りを持ち、生徒とともに歩み続けた夫。その優しかった家族思いの夫が、突然意識を失い、15年の闘病生活の末56歳で亡くなったのです。
 倒れる2年前には鼻出血がとまらず高血圧と診断され、3年担任ではなく他学年に変わりたいとの希望を出していました。しかし、海外勤務、海外生活となり、帰国後も、つらい仕事が続きました。

 倒れた当日も、前日から夜通し学年末考査の問題を作成していました。顔色は青白くひどく疲れていました。それでも3年生担任として、センター試験にのぞむ生徒たち激励のため、早朝6時半には自宅を出ました。連続3時間の授業。授業が終わるとすぐに「海外ホームステイ保護者説明会」、さらに女子バレー部引率のため開催地のホテルへの1時間近くの自家用車運転。ホテル到着後夜9時からの打ち合せの最中、脳出血を起こし突然倒れそのまま意識を失いました。
 倒れた日の夫の荷物にはパソコンがありました。学年末考査の試験問題が途中の状態でした。締め切りは間近にせまり徹夜してもなおかつ終わらぬ仕事を抱え底なし沼にはまっていた夫。
 夫は、受験を控えた3年生の担任、英語科の主任、英検面接委員、各種委員会、女子バレー部顧問、企画振興主任と数々の任務を兼務し、仕事の締め切りに常に追われていました。自宅に持ち帰り深夜までほぼ毎日仕事をしていました。責任感の強かった夫は、限界となり発病したのです。

 私は、医師からCT画像を見せられ「一生植物状態のままです。」と宣告されました。変わり果てた夫の姿とその側にいるまだ小学校1年生7歳の娘と幼い4歳の息子。どうして生きていったらよいのかと目の前が真っ暗になりました。ですが悲しむ間もなく介護と子育て、生活のために働かなくてはならない日々が始まりました。せめて意識さえ戻ればとあらゆる手を尽くしましたが実りません。明日の命の保証のない夫の病状は決して穏やかではなく気の休まる日など一日もありませんでした。
 公務災害がとれるかどうかもわからない不安、医療費や介護にかかる費用が生活にのしかかる。私は精神的、肉体的にも過労となり自宅で倒れ救急車で搬送されたこともありました。
 公の場所で夫について語るなどという心の余裕など全くありませんでした。できることならそういう話題とはかけ離れていたいとさえ思っていました。なぜなら一度こうなった大切な夫は二度と元にはもどることはなく、その事実は家族皆の心にゆき場のない怒り悲しみとともに大きな傷となりずっと消えることがなく、この話題に触れる、語るということはその心の傷に塩を塗る作業だからです。

 その私の心を変えたきっかけは昨年の夫の葬儀でした。
 15年たっても教え子やかつての同僚の方々がたくさんかけつけて涙を流しお参りしてくださいました。それがきっかけで病室に置かれ、教え子達がずっと書いてくれていたお見舞いのノートを読み返しました。そこには英文のメッセージが見舞いの都度繰り返されていました。
「NEVER GIVE UP」
「KEEP ON SMILING」 
「あきらめるな、いつも笑って」
 それは現役時代の夫が生徒たちに必ず伝えるメッセージでした。
 ノートを読み返すうちに夫が一所懸命した仕事は確かなもので、無駄なことは何一つない。植物状態のまま15年も生き続けながらも教師であり続けたことは夫なりのメッセージだったのではないのか。「あきらめるな」、そう夫はずっと発信していたのに、私は諦めていたのではないか。
 そう気づいて私は諦めるのをやめることにしました。
 地方の1教師の過労死を「残念なこと」にすべきではなく、すべての教師の方々が命を落とすことのない働き方を、夫の死を教訓にして皆で考えてもらいたい。そのきっかけに夫の死がなるのなら私が話さなくてはと思い、話すことに決めました。
 夫は激務であったにもかかわらず、「通常の日常の範囲内」と判断され公務外にされました。審査請求をし、認定がとれるまでには3年もかかりました。
 教師は通常の日常に多岐にわたる業務をこなすことに追われています。勤務時間はあってもなきが如く、残業は当たり前、持ち帰り仕事もあたりまえ。早急に教員の通常の日常の過重な勤務、多岐にわたる業務の改善などを抜本的に見直すことをお願いいたします。
 夫の死を教訓とし無駄にしないでください。