子ども時代に幸せと可能性の平等を/西川治(事務所だより2018年9月発行第57号掲載)

今年から、「なくそう!子どもの貧困」全国ネットワーク世話人の末席に加わることとなりました。

 このネットワークには、大学卒業後、明石書店で『子どもの貧困白書』の編集に携わった縁で、約10年前の立ち上げ時に事務局として関わっていました。その後しばらく離れていたのですが、今回お声がけいただいて世話人に加わることとなりました。

 2013年、「子どもの将来がその生まれ育った環境によって左右されることのないよう、貧困の状況にある子どもが健やかに育成される環境を整備するとともに、教育の機会均等を図るため」の法律である「子どもの貧困対策の推進に関する法律」が成立しました。
 2019年は、同法に基づく「子供の貧困対策に関する大綱」の制定5年後の見直しの時期にあたっており、より実効的に、できるだけ途切れなく、穴のない対策を進めるため、大綱見直しに向けて活動を進めていく予定です。

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 先日、「『教育費の政治経済学』と子どもの貧困、教育の無償化」と題して、教育行政学の末冨芳先生(日本大学文理学部)を講師に研究会が行われました。
 「子どもの貧困」と私たちがどう向き合うかについて大変示唆に富んだお話でしたので、末冨先生の問いかけをご紹介したいと思います(若干改変しています)。

問)公立中学校に次のものは必要でしょうか。不要でしょうか。
●掃除機
●話題の映画のDVD(発売当時の『ハリー・ポッター』や『アナと雪の女王』など)
●演劇シアター
●iPad
●朝食
●3Dプリンター
●ゲーム機「Nintendo Switch」
●カフェ
●修学旅行
●猫

 単純に必要/不要というほかに、「あった方がよいが、必要不可欠ではない」とか、「あってもいいかもしれないが、ない方がいい」といった見解もありうるかもしれません。

 この中で、おそらく日本で一般に「必要」や「あった方がいい」と答える方が多いのは「修学旅行」でしょう。
 逆に「不要」や「ない方がいい」と答える方が多そうなものがたくさんあります。「ゲーム機」「カフェ」を筆頭に「掃除機」「DVD」「演劇シアター」「3Dプリンター」など。「朝食」や「iPad」「猫」は意見が分かれるでしょうか。

 別に正解を決めるつもりはありませんが、たとえばカフェのある高校があります。神奈川県立田奈高校では、「ぴっかりカフェ」として図書室でカフェが開かれています。ボランティアスタッフが加わり、生徒が立ち寄りスタッフらと気軽に相談できるような居場所として開催されています。ほっとできる居場所、そして先生以外の大人と話ができるような場所が中学校にあってもいいでしょう。直接には不登校の防止につながるかもしれません。

 「DVD」「演劇シアター」はどうでしょうか。子ども時代に周囲の子どもが体験している文化的な体験を体験できないことは本人にとってマイナスになりえます。美術館や博物館、図書館はもちろん、演劇や映画鑑賞といった子ども時代の文化的体験の有無・量は子どもの学力等に影響を与えるとされています。

 「ゲーム機」は有害なように思われるかもしれませんが、子どもにとって最も身近なIT機器はゲーム機やスマートフォンです。今やITスキルは多くの業務に必要不可欠ですし、ゲーム開発は一大産業に発展しています。子ども時代のIT体験の多寡が子どものITスキルに影響を与えて何の不思議もありません。

 「掃除機」はどうでしょう。現在の日本社会では、「ほうき」と「ちりとり」で掃除をするより、掃除機で掃除する機会の方が多いでしょう。「掃除機の使い方は家庭で教えるべき」という意見は間違っていないかもしれませんが、家庭で教えてもらえなかった子どもがいるとすれば、中学校で教えてもいいのではないでしょうか。

 逆に「修学旅行」はなぜ必要なのでしょうか。海外旅行すら普及した現代、修学旅行代として相当の経済的負担をさせてまで(就学援助を受けている児童生徒については、公費で修学旅行費を負担して)、学校で旅行に行く意味はどこにあるのでしょうか。
 私は、逆に旅行が普及したからこそ、義務教育修了までに少なくとも複数の旅行体験(異文化体験や集団行動体験、家庭外での宿泊体験や、自然体験、現場を見ての歴史教育などを含む。)を保障することには一定の意義があると考えますが、かつての農山村のように、修学旅行以外で地元から出る経験がない、というような状況は少なくなっており、漫然と続けるのではなく現在でも行うべき理由を問い続ける必要はあるでしょう。

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 上の問いは、教育費に対する「感度」、つまり教育に対する考え方の度量の問題として取り上げられたものです。

 「子どもの貧困」問題は、社会としてすべての子どもに、生まれ・育った家庭に関わらず何を保障するか、という問題と不可分です。
 もしある子どもが得られなかったものについて、「それは親が悪い!」と思うのであれば、それは社会が保障すべきもの、と考えるべきではないでしょうか。
 「掃除機の使い方は家庭で教えるべき、教えないのは親が悪い!」と思うのであれば、子どもは掃除機の使い方を教わる機会が保障されるべき、ということだと思うのです。

 親の責任を問うのは簡単です。
 しかし、問うているうちに、子どもはおとなになってしまいます。

 本当に考えるべきは、「どうやって保障するか」の方法論であり、そこに力を尽くすべきなのに、日本の世論はいまだ「親の責任か、社会の責任か」を議論しているように思えてなりません。

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 子どもの虐待死のたびに、児童相談所の体制強化が言われます。もちろん、親は刑事責任を問われるわけですし、児童相談所の体制ではなく親の問題だ!という方もいらっしゃるでしょうが、おおむね子どもの「命」は保障されるべきと考えられているようです。
 では、子どもの健康はどうか、学習環境はどうか、生活体験・文化的体験・自然体験はどうかと考えていくと、意見は分かれていくでしょう。

 私は保障の範囲をできるだけ広くとらえた上で、まずはどこまで対応が可能なのか、何を優先して対応すべきなのか(費用の問題はもちろん、学校など子どもと接する機関の対応能力などの制約があります。)を議論していくことが必要だと考えていますが、いかがでしょうか。

 「子供の貧困対策に関する大綱」の見直しが、すべての子どもに幸せと可能性の平等を保障する方向でなされるよう、力を尽くしたいと思います。