音楽家の苦難/野村和造(事務所だより2021年8月発行第63号掲載)

 昨年のことだが、Facebookの動画を開くと、立派なオーディオシステムから流れる美しい旋律。
 住職の方が檀家を訪問した際のレコード演奏の様子を録画したものなのだが、ついつい気になって、レコードの表示をよくみると、カリンニコフの交響曲第1番とグラズノフの交響曲第5番だった(YouTubeで確認すると、音楽はカリンニコフの第2楽章冒頭部)。

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 カリンニコフは1866年1月13日に生まれて、1901年1月11日に34歳で亡くなっている。
 早くから才能を認められるも、学費を納入できずモスクワ音楽院を退学するなどずいぶん苦労したようだ。1892年にはチャイコフスキーに認められた。しかし、長年の過労で健康を損なっており、結核のためヤルタで療養することになった。そこではゴーリキーやチェーホフと一緒だった。
 交響曲第1番はその療養中の1895年に完成した。財政的援助を期待してリムスキー=コルサコフへ楽譜を送ったが、写譜のミス(カリンニコフの妻が写譜を手伝わざるをえなかったようだ)などにより、演奏不能という評価を下されてしまう。数学のアーベルやガロアの悲劇を思い起こすが、幸い、翌年になって友人達の協力により初演が行われた。
 7歳年下のラフマニノフがカリンニコフの楽譜を売るのを手伝い、カリンニコフの経済状況は少し好転したが、35歳の誕生日直前に命が尽きることとなった。

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 同じレコードにあるグラズノフは同時代の作曲家である(1865年8月10日-1936年3月21日)。
 「ショスタコーヴィチの証言」(*1)によると、グラズノフは、ペテルブルク音楽院院長の時、その収入の大部分を困窮した学生達に分け与えた。
 多数の推薦文を書き、人々に仕事を与え、時には命を救った。グラズノフは、何時間も、困窮し打ちひしがれたたくさんの人々の訴えに耳を傾け、請願書に署名するだけではなく自ら有力者のもとを訪れ奔走したのだ(*2)。
 ソ連政府がグラズノフの創作活動を容易にする決定をしたことを教育人民委員が祝辞の際に告げた時も、グラズノフは、他の市民と区別する特別待遇をしないでほしい、それよりも音楽院に注意を向けてほしい、薪がなく学校全体が凍えているのだからと述べたという(その後薪が音楽院に届いた。)。その時グラズノフは、体格のいい美男子であったのに見る影もなくやせこけ、作曲の構想を書き付ける五線譜すらない状態だった(*3)。
 また、革命前、ユダヤ人の権利が無慈悲に剥奪される中、当時の首相が何人のユダヤ人が入学したかを問合せた際には、グラズノフは「われわれはその数はかぞえたことはなかった」と答えを返したという(*4)。

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 ずいぶん昔の学生時代のことだが、ベートーベンが苦難を乗り越え、独立した地位を築いたことを強調してその作品を高く評価し、モーツアルトを悪し様に言う人がいて、強い違和感を覚えたことがある。音楽はそれ自体独立したものとして評価されるべきだと思ったのが反発の理由の一つだった。
 しかし、音楽には、作曲家の様々な人生が反映し、それが同世代、そして以後の世代の音楽家や人々に大きな影響を与えてきたのは間違いない。
 音楽を聴くことや受け止め方とは別に、その苦難について知ることは大きな意味があると思う。
 そして、今の時代の苦難について考える。

*1 「ショスタコーヴィチの証言」(ソロモン・ヴォルコフ編 水野忠夫訳、中公文庫 2001年改版)は、死後国外での発表を条件にショスタコーヴィチが述べたものとして出版された。
 鋭いスターリン批判を含む内容で(スターリンを「狂人」だとしている)、権力者の横暴に対する怒りに満ちている。この本についてはショスタコーヴィチ本人の証言ではないとの主張が当初からなされ、様々な問題点の指摘がある(偽書論争)。この論争について十分な知識を持っているわけではないが、そもそも偽書と言訳できなければ当時のソ連で遺族はどうなるだろうか、偽書と判断される余地をわざと作るということは考えられないのだろうか、証言の真贋論争がその内容よりもより多くの興味を引き起こす結果となったのではないか、などとも考える。そして本の内容をショスタコーヴィチ自身が認めたか、口に出したかどうかは別として、スターリン体制の下での「真実」が示されているのは間違いないのだろう(なお、NHKらららクラシック「命がけで書いたシンフォニー」)。
 グラズノフについての記述は、彼に対する愛情にあふれている。グラズノフのアルコール依存について書かれていることは、彼の評価を低くするものではない。グラズノフの置かれていた立場がいかに困難なものだったのかを思う。
*2 同書 343-344頁
*3 同書 341-342頁
*4 同書 340頁