『奴隷』『工場』(小説・女工哀史)/山岡遥平(事務所だより2020年8月発行第61号掲載)

 『奴隷』『工場』は、「女工哀史」で知られる細井和喜蔵(1897-1925)の小説で、作者の死後、発表されたものだ。私は、この小説を岩波文庫版(2018年10月・12月発行)で読んだ。
 作者の死後、作者の十分な校正を経ないまま、1925年と1926年に世に出ているため、構成や展開の面で不十分な点があるのは否めないし、やや俗っぽいところが多いが、今だからこそ、読んで良かったと思える小説だった。

 これらの小説は、非常にざっくりいえば、京都の山奥に生まれた少年が、地元の紡績会社に下働きとして働きに出て、そこから大阪の大手紡績会社で働き、恋と発明の夢に破れた結果自殺未遂を犯すが、その後、労働運動に目覚めて活動する、という物語だ。
 作中で描かれる労働条件は劣悪そのもので、私たちが守っていかなければならないものがよくわかる。

 まず、労働時間がめちゃくちゃだ。主人公の住む加悦奥に大阪から来た募集人が、(加悦奥の工場は)「三度が三度南京米の麦飯に菜っ葉ばかり食べさせて、十五時間も十六時間も働かせる」(『奴隷』p.142)と述べているように、加悦奥では1日16時間も住み込みで働かされるが、そうして行ってみた大阪の工場でも、「十四時間という長い労働が終わって」(同p.211)とあるように、同じような労働条件だ。ちなみに、『工場』において主人公がストライキによって要求した事項でも、「各部二時間の強制残業を撤廃し正規通り十二時間労働に短縮する事」であったから、いずれにせよ相当の長時間労働である。
 しかも、下宿代や被服費等が給料から引かれ、また、強制貯金もある。その上、強制貯金は、満期までに退職すると、全く返されない(同p.394)。また、女工は完全歩合制の場合もあるので、なかなか休むこともできない。
 次に、人事も非常に恣意的だ。解雇も広く行われ、主人公は、労働組合に入ったこと、同僚の女工と恋愛関係にあったことが理由で解雇される。女工も、工場長の都合や好みで工場を移される。
 属人的支配によるセクハラもひどいもので、主人公と仲が良かったお繁や、お考をはじめ、何人もの女工が上司によって手込めにされている。
 労働安全衛生についても、主人公の指の切断や、死亡事故も含め、何度も描かれており、それでもなお改善されなかったり、補償がほとんどなされなかったりする。過酷な労働が労働者の健康をむしばむことも意識されており、「つまり彼らはわずか一分や二分の賃金に目がくれて、過労のため自分の身体が日々破壊されていって、寿命の幾パーセントが縮まりつつあることにも気づかず、規定時間以上に余計働くことを喜ぶでしょう!」(『工場』p.33)とされている。注目したいのが、これが、強制的な労働をよしとせず、自発的に働かせる方法として人事係主任が述べていることだ。

 こうしてみてみると、この小説の主人公の戦いのような行動があってこそ、社会的に労働者を保護しなければならない、という認識が広まり、法整備に繋がって、今のような労働時間規制、労働安全衛生に関する規制、ハラスメントに関する措置義務の規制等ができているのだ。
 私たちは、今の労働条件が当たり前のものだと思っていると、様々な方法で例外が作られ(裁量労働制、高プロ、ひいては「雇用によらない働き方」etc.)、いつの間にかまた労働条件が切り下げられてしまうだろう。
 これを防ぐために、常に労働条件の改善に向けて行動しなければならないのだが、そのための組合作りはいつの時代も難しいようだ。作中、主人公は、工場の人々を煽動し、ストライキに突入するが、解雇されてしまう。その後も、主人公は社内での組合活動や、整理解雇の撤回を求める運動を行ったために次々解雇されてしまう。そんな中でも彼は組合加入を呼びかけるのだが、

(勧誘された者は、組合費が)「『一年経つと二円四十銭積金が出来ます勘定になりますよって、運動会に一遍くらい伴れて行ってくれますのか?』と真面目で訊いた。
 江治(注:主人公)は腹が立って怒鳴りつけてやりたかった。そしてあまりに無智な兄弟たちに今さらの如く呆れ果て、こんなものを相手に啓蒙運動をやらねばならぬよう運命づけられた自分の存在を呪わしくさえ思う」(『工場』p.312-313)

(入社時に、契約期間は退社しないと誓約書を取りながら)「生産制限による人員過剰のため勝手にその約束を破棄して、辞職を迫るなどという姑息な横着な会社の態度に、一言の抗議も申し込まずしてめそめそと出て行く職工たちを憐れむよりもむしろ江治は憎んだ」(同p.378-379)

 とあるように、戦う仲間を得ることに非常に苦労している。それでも、先の313頁の記述に続いて「そういう考え方が間違っていることにすぐ気づいて悟り直した」、さらに、379頁には「ただ憎んで傍観している者は冷血児でこそあれ決して親切な同類意識を持つ物のとるべき道でなく」とあり、作者自身のもどかしい思いが重なるかに見える。
 以上のように、『奴隷』『工場』は、労働運動が古くから抱える苦労と共に、そのたたかいなくして労働条件の向上はないし、常に労働条件の切り崩しの危険があるのだ、ということを改めて意識させられる小説だ。
 「官製春闘」などという言葉も出来てしまった昨今、改めて働く人とともに、働く私たちに暮らしやすい世の中にするための運動を作っていかなければいけないと強く感じさせられた。
 かなり大部の小説で、最初に述べたとおり、やや不完全な部分もあるし、文学的評価がそこまで高くない理由も十分にある。しかし、まさに大衆に読まれるために書かれた、今でもなお重要な労働問題の原点を思い知らされる小説なので、ぜひお時間があるときに読んでみて欲しい。