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  ある信用金庫職員の過労死

弁護士 大塚達生


 1988年、「過労死110番」全国ネットワークが、電話による全国一斉相談を開始しました。これが契機となり、過重労働が原因となって脳・心臓疾患を起こし死亡または後遺障害を残すに至る「過労死」が、社会的に広く知られるようになりました。

 下記の事例は、1992年に実施した過労死110番に参加して相談を受け、その後、労災保険給付の申請をしたケースです。


 Aさんは、昭和40年にB信用金庫に入職し、昭和63年からは東京都内のC支店の得意先課の課員として勤務していました。

 平成元年からは同支店の融資課の課員として、支店の預金額・融資額の増加目標に基づいて設定されたノルマを達成するために、また融資事務処理のために、連日顧客先を回るなどして朝早くから夜遅くまで勤務していました。
 Aさんは、奥さんに、ノルマに関する悩みを話すとともに、疲労を訴えていました。

 平成4年6月1日、Aさんは、神奈川県内のD支店の融資課長への異動の辞令を受けました。

 そして、2日、AさんはC支店で業務引継を行い、後任者と60軒以上の顧客を回り、仕事中だった午後6時頃、頭痛を感じ始めました。
 この日、午後10時すぎに帰宅したAさんは、奥さんに、「今日はがんばりすぎた。」「頭が痛いから何も食べずに寝る。」と言って就寝しました。

 3日、Aさんは、異動先のD支店で業務引継を行いましたが、頭痛が増したため、夕方、内科医院と脳神経外科病院を受診し、翌日のCT検査を予約して帰宅しました。
 しかし、帰宅後、Aさんは、激しい頭痛と吐き気を訴え、救急車で脳神経外科病院に運ばれて、クモ膜下出血と診断され、脳死状態となって、数日後に亡くなりました。


 金融機関の職員が脳・心臓疾患で亡くなって遺族が労災保険給付を申請しようとすれば、労働の実態を裏づける資料が乏しいという問題に直面します。
  
 金融機関に問い質しても、自らに都合の悪い労働実態を明らかにさせることは期待できず、職場の同僚たちも金融機関の目を恐れて口を閉ざすのが普通です。

 ところが、Aさんの場合は、偶然というべきか、業務に関する様々な資料を入手することができました。職場から私物であるとして返ってきた段ボール箱の中に、支店の業務目標と実績に関する資料が入っていたのです。

 また、Aさんが仕事に使っていた手帳(金融機関の営業職用の大型手帳で、同僚らが使っていたものと同じ。)には、上司らから指示された目標や方針、会議の時刻が記載されており、そのほかにも仕事に関連する時刻と思われるものが記載されていました。

 Aさんの勤務状況に関する情報収集について、職場の同僚たちに手紙を送り協力を要請したところ、それらの手紙は支店長によって回収されてしまいましたが、一部の同僚らからは、匿名にすることや、公然化しないことを条件に声が寄せられました。

 そして、一人の退職した元同僚が、名前を出して証言してもよいと、協力を申し出てくれました。


 このような作業と並行して、私たちはB信用金庫に対して、労災保険給付申請のために必要となる事項であるとして、Aさんの業務内容・勤務状況等に関して、様々な照会を行いました。

 これに対して、B信用金庫は、実態とはかけ離れた労働時間の記録を私たちに示してきました。その記録の内容は、Aさんが残した手帳に書かれていた会議の時刻等と矛盾する内容でした。

 B信用金庫の立会いのもとでAさんの同僚から事情を聴いたところ、信用金庫が作成した記録には表れていない時間外勤務の実態を聴き出すことができました。

 退職した元同僚の方にも、この記録を見てもらったところ、実際よりも少ない労働時間が書かれているとの証言を得ることができました。

 また、支店の業務目標と実績に関する資料もこの元同僚の方に見てもらったところ、支店の職員たちが「天文学的数字」と言っていたノルマとその未達成の状況が分かりました。

 このようにして、Aさんの死は、日常の過大なノルマに追われた長時間過密労働と、2~3日間という短期間で行わなければならない過密な業務引継に起因していたということが、だんだんと裏付けられました。

 そのような中、残念なことに、C支店におけるAさんの後任者も、Aさんと同じクモ膜下出血で亡くなってしまいました。


 相談を受けてから1年以上かけて準備を整え、1993年10月、私たちが代理人となってAさんの遺族は、労働基準監督署に労災保険給付の申請をしました。

 申請にあたり、労働基準監督署に弁護士の意見書を提出しましたが、その意見書の冒頭に次のように書きました。

「本件は、これまで実残業時間の把握が困難でその労働過重性の実態が表には出にくかった金融機関外回り労働者の労働災害事件であり、事実調査にはいくつかの関門があることが予想されますが、本件は幸いなことにC支店内部の業務目標及び業務実績に関する資料が偶然労働者側に残っており、また元同僚の積極的な証言もあるため、貴監督署においては、これらの資料と証言の意味するところを丁寧に解読していただき、B信用金庫の金融機関特有の形式的答弁・建前的答弁に惑わされることなく、また労務管理の過酷な金融機関に特有な内部証言の希少性にとらわれることなく、C支店における過重労働の実態を労働者の立場に立って正しく認識され、A氏の死亡について速やかに業務上認定をされることを切望いたします。」

 当時、クモ膜下出血などの脳血管疾患による死亡が労災と認定される割合は、今よりずっと低く、また、労働基準監督署は今以上に、労働時間の実態を把握して違法を摘発しようという姿勢に乏しいという実態がありました。
  
 当時、日本の企業社会にサービス残業が蔓延していることは公知の事実でしたが、それらを取り締まる機関である労働基準監督署が、サービス残業をどんどん摘発したという話はききませんでした。
  
 B信用金庫はAさんの死亡について「労災ではない」「サービス残業はない」と言っていましたので、このような監督署が真相に辿り着くことは、相当難しいことだと思われました。

 このようなことから、調査を監督署に任せっぱなしにするわけにいかず、申請者側としても可能な限り事実関係を調査して、監督署に材料を提供する必要がありました。

 相談から申請まで1年以上かけて準備を整え、このようなことを意見書に書いたのは、そのためでした。

 結局、この労災保険給付の申請は、申請から3年7カ月後に労災であると認定され、保険給付の支給決定が出されました。

 この3年7カ月という期間の長さは、私たちが当初危惧したように、監督署の調査が相当困難を極めたということだったのかもしれません。