今年は、日本ではじめて公害犯罪を摘発した田尻宗昭さん(1928年2月21日~1990年7月4日)の33回忌にあたる。
田尻さんは、四日市での海上保安庁時代に公害事件で初めて刑事責任を追及した人だ。
田尻さんは、公害Gメンと呼ばれていたが、その前は巡視船船長として李承晩ライン設定下で、機関銃の銃撃を受けたりする中、ぎりぎりの日本漁船保護を行っていた海の男だった。
彼が四日市に赴任し、密漁を取り締まっていたら、工場廃液で魚が捕れなくなったから密漁せざるを得なくなったことを聞かされ、本当に海を破壊するものを放置するわけにはいかないと、工場の廃液垂れ流し問題を取り組むようになる。
しかし、彼は時効寸前の時期に最高検が取り上げない方針であることを聞く。膨大な押収証拠の中には通産省と石原産業の間の癒着を示す文書があり、社会党の石橋氏が国会で追及するが、誰が文書を漏洩したのかが問題になった。
田尻さんは、覚悟の上、自分が漏らしたのだと名乗りでた(結果として処分はなかった。)。
それからの田尻さんの活動を支えたのは四日市の経験、漁民の人たちだったという。
田尻さんは、1973年、美濃部知事から請われ東京都公害局で活躍することになり、日本化学工業工場跡地の六価クロム問題の解決をはかった。
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田尻さんは、東京都公害研究所を経て、1986年、神奈川労災職業病センター所長に就任した。
そして、田尻さんは1987年、米空母ミッドウエイの改修工事に目をつけ、アスベスト廃棄物投棄を追って、その問題を社会化していく。
田尻宗昭さんの呼びかけで、鈴木武夫(国立公衆衛生院院長)、佐野辰雄(元労働科学研究所副所長)ら研究者、医師、弁護士らによってアスベスト問題研究会がつくられ、1987年11月には石綿対策全国連絡会議(石綿全国連)が結成され、田尻さんは、総評議長、全建総連委員長、日本消費者連盟代表、佐野辰雄医師と共に代表委員に就任した。
他方、横須賀では、1982年5月、読売新聞が、横須賀共済病院の三浦医師らの造船労働者の肺がんや中皮腫についての研究調査結果を取り上げた。全造船浦賀分会(現全造船住友重機械・追浜浦賀分会)、港町診療所及び神奈川労災職業病センターは、アンケート調査等を始め、1984年からは「じん肺・石綿肺自主健診」活動を行っていた。
そのような中、私は、田尻さんからアスベストの危険性を社会問題化することがいかに大切かを説かれ、造船労働者がアスベスト被害を訴える訴訟の弁護団に入ることとなった。
この提訴については1988年7月9日の朝日新聞朝刊トップで報道されたが、提訴前なのにこのようなことが実現したのは、まさに田尻さんの力だった。
田尻さんは、「まず工場の中のひどい状態があり、それが外にもれて公害になる。だから、公害防止のためにはまず職場の問題が大事なのだ」といつも強調していたが、それは2005年のクボタショックで明確になっている。
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2012年、アスベストの全面禁止がようやく実現した。しかし、アスベストの危険性が明らかになっているにもかかわらず使用を放置したことは悲惨な結果をもたらした。
そして、それはこれからも続く。アスベストによる中皮腫は暴露してから50年以上してから発症することもある。また建替えや地震などの際に既に使用されたアスベストが漏れることも予想される。
田尻さんは、私たちの次の世代の子どもたちが豊かな人間らしい心、人間らしい勇気、人の災難に痛みを感じるようなやさしさをもってほしいと考えていた。そして「何の役にも立たない」と言っていてはだめ、役に立つかたたないか、効果があるかないかではなく、私たちの人生の生き方が、貴重なものを必ず次の世代の子どもたちに残していくのだと述べていた。
今年1月に開かれたアスベスト被害集団訴訟第1回口頭弁論で、夫を中皮腫で失った原告の方は、「いつ吸ったかわからず、アスベストの被害に苦しんでいる人、これから発症するかもしれない人、その人たちのためにも、アスベストの発癌性を知りながら製品を売り続けた企業や、それを放置した国の責任が明確にされることが必要だと考え、この裁判に加わりました」と陳述した。
田尻さんと同じ心をもった人たちが裁判に踏み切っている。