峰雪さんの思い出/野村和造(事務所だより2020年1月発行第60号掲載)

 宇野峰雪さんが亡くなって約1年になる。宇野さんには、事務所でずっとお世話になり、恩返しもできなかった。思いつくまま、宇野さんのことを書いてみたい。

*ほうせつさん

 「峰雪」を「ほうせつ」と読む人が多かった。芸術的なことをしていると思っている人も少なくなかった。

*お酒

 私が、神奈川総合に入所したのは1976年4月。その前年の秋、涸沼・大洗への事務所旅行に招待してもらった。
 大洗では、酒盛りにいつのまにか加わった地元の高齢の女性が磯節を教えてくれ、宇野さんは飲めば飲むほど陽気になり、踊り始めた。そのすばらしい酔いっぷりは、はじめて出会うものだった。
 中華街の獅門酒楼でだったか、開店祝いの紹興酒の瓶を飲み干すのだといってきかなかったこともある。
 午前2時近くまで飲んで、それから書面を書いたりしていた。
 ワイン評論家で日本労働弁護団名誉会長の山本博さんと酒を飲む中、横浜大空襲や反核の意見広告がまとまった(賛同者全員の氏名を新聞の全面にぎっしりと載せる広告は新聞広告賞最優秀賞を受賞。)。

*平和

 宇野さんは、1996年からずいぶん長い間、神奈川平和運動センター代表をしていた。
 厚木基地爆音第1次訴訟では弁護団長格(弁護団長はおかなかった)。最高裁判決が確定して防衛施設庁に行ったが、宇野さんは、騒音下にある人全員に補償すべきだと主張。私には全く考えの及ばないことだった。

*体力

 宇野さんは、スモン東京第2グループ弁護団で、夜2時頃東京からタクシーで帰るようなこともあった。情報労連・NTT労組弁護団でも山に登り、61歳の時には、元ワンゲルの田中誠弁護士と一緒に巻機山に登山している。

*寄り添う

 宇野さんが、3時間以上も依頼者の人の話を聞き続けていることがあった。横浜米軍機墜落事故の被害者、和枝さんのお父様の悲しみを受け止め、尽力していた。

*かざらなさ

 かざらない人だった。夏は開襟シャツだった。千葉弁護士は、講演で、宇野さんのことを変な弁護士だと言っている(*1)。

*寛容さ

 人を叱ったり悪く言わない人だった。
 事務所の花見で、元町公園に行った際、柿内弁護士が私を叩こうとした一升瓶が割れ、そこに手をついた宇野さんが出血、救急医療センターで縫ってもらうということがあった。しかし、終始陽気で、文句の一言もなかった。
 私たちは宇野さんの寛容さに甘え、下剋上法律事務所だと言う人もいた。

*反対尋問

 反対尋問のすごさは評判だったが、残念ながら人事院の口頭審理でたった一言聞いただけだった。

*謙虚さ

 神奈川大学在学中、司法試験と国家公務員試験に合格していた。1969年2月谷田部正弁護士が亡くなってその後を継ぎ、鵜飼弁護士を採用し、その後、鵜飼、柿内と共に神奈川総合法律事務所を創設。しかし、長い間少なくとも経済的な顧客層は宇野さんに依存していた。
 けれども威張ったり、意見を押しつけたりするようなことは一切なかった。
なんとかなりますよ
 困難な時に宇野さんが言う言葉は、「なんとかなりますよ」だった。
 事務所の10周年誌に鵜飼弁護士が、宇野さんのことを「多少のことには動揺しない」「この人のたぐいまれな包容力とあたたかい人間性なしには神奈川総合の十年はありえなかったにちがいない」と書いている。まさにそのような人だった。

 まだまだいろんなことが思い浮かぶが原稿の締め切り時間が間近となってしまった。
 とてもまねのできない人だった。このような人と、長い間、一緒にいることができたのはとんでもない幸せだったことに気づく。

*1 ゲスト講演「弁護士出身の議員・法務大臣の経験から」千葉景子(神奈川ロージャーナル2012年5月号)
「当時の思い出として、裁判所で変な弁護士がうろうろしているのを見かけて奇異に感じたことがありました。腰に手ぬぐいを下げたような格好をした弁護士です。頭ももじゃもじゃとしていて、一体どこの誰だろうと思っていたところ、この神大の出身で、宇野峰雪氏でした。宇野氏は、後から私のボスとなった人で、私が大変尊敬している弁護士です。また当時としては珍しいアタッシュケースを下げてさっそうと裁判所内を閥歩する人もいました。さらに、まだ学生かなと思われる風貌の弁護士がズタ袋を引きずるような格好をして裁判所内を歩いていました。」(なおアタッシュケースは柿内弁護士、ズタ袋は野村。1981年頃)
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