
1 終戦・被爆から80年
2025年は終戦、そして被爆から80年の年でした。
私は、小さいころから祖母が疎開した経験や、祖父が「軍隊に行きそこなった」経験を聞いて育ちました。戦争の中生きる、という経験を直接経験者から一応ながら聞いています。では、私の次の世代は……幸いなことに、私自身は戦争のさなか生きたことはなく、その体験を下の世代に共有することはできません。
80年という、人の平均的な寿命に近いアニバーサリーは、直接の戦争体験が薄れていく中で、国際情勢が混沌を極め、不安定化していくうちにも、どう平和を保っていくのかについて改めて考える機会になるものでしょう。
2 私と広島・長崎
私の出身は横浜市ですが、実は広島・長崎両方に縁があります。父方の祖母は広島出身で、祖母自身は疎開していたとのことですが、兄弟が原爆の閃光を目撃したそうです。また、母の出身地が長崎で、私が小さい頃は毎年のように長崎に行っていました。
ただ、長崎市内からはずいぶん離れたところに母の実家があったため、これまで長崎の原爆資料館や、平和公園を訪れたことはありませんでした。
3 平和公園と平和祈念像、原爆資料館
そこで、今回、人権擁護大会が長崎市内で開催され、「再び戦争の惨禍が起こることのないように~『危機の時代』の私たちの選択~」と題する分科会が開催されたため、これに参加するとともに、平和公園や原爆資料館に行ってみることにしました。行ったことがある方には当たり前の感想かもしれませんが、以下、私の見た感想です。
⑴ 平和公園と平和祈念像
宿泊していた新地中華街からバス乃至路面電車で15分ほどいったところに平和公園はあります。
エスカレーターを乗り継ぎ、丘の上に行くと、泉が見えます。泉には「のどが乾いてたまりませんでした」から始まる少女の手記の抜粋があり、被害の悲惨さの一端を伝えます。この泉を過ぎたところに、各国から贈られた平和の像が設置されていますが、泉に近いところにはソ連、チェコなどの像があり、ちょっとした政治的な意図を感じます。
広場の前には、浦上刑務所跡があります。頑丈だったであろう塀の跡が痛々しく残ります。罪も何も関係なく、無常にすべてを奪い去る原爆の脅威を感じました。
平和祈念像のある広場は、思ったよりも広く、像はTVで見た通りの筋骨隆々としたその姿で鎮座しています。しかし、意外だったのはその顔です。私は、勝手にあの身体のように厳しい顔をしている、と思っていました。しかし、実際には非常に穏やかな顔でした。「顔は戦争犠牲者の冥福を祈る」とされます。あの巨大な像に託された非常に重い願いを、見事に形にしていまでも象徴として存在し続けるその姿に、1951年に着工され、1955年に完成した、戦争の生々しい記憶と痛みが残っていた時代の想いの強さを感じざるを得ませんでした。
⑵ 原爆資料館
原爆資料館に入ると、年代が書いてある壁を見ながら、らせん状に下っていきます。下った先には、原爆によって被害を受けた遺構や、沸き立ってしまった瓦、強烈な光線によって影が焼き付いた壁などの資料の他、原爆の模型、町の被害の概況を示す資料などが展示されています。
そして、展示室の終わりの方には、被害を受けた方々の手記など、個別の被害を示す資料も展示されており、そこを過ぎると、反核の歩みの他、核実験による被害についてのインタビュー動画などが展示されていました。
「核を使ったらどうなるか」という点について、核の被害を受けた人々、また、環境が、具体的にどのような被害を受けるのかについて否応なく感じさせる展示でした。
⑶ 長崎原爆死没者追悼平和祈念館
原爆資料館と地下でつながっているのが、この長崎原爆死没者追悼平和祈念館です。
静かな空間に、被害者お一人お一人の写真(写真のある方)とお名前が表示されるディスプレイ、そして、追悼空間には名簿棚がありました。
写真は、撮影された年代も比較的バラバラで、放射線の影響等によって、現在もなお被害を出し続けていることに思いを致さないわけにはいきませんでした。
4 さいごに
カントは、「永遠平和のために」で、平和を目指す段階として、常備軍を廃し、市民による自衛と、共和政を訴えました。これは、「戦争などしたいはずがなかろう」という人間性をカントが信頼したことによります。
陳腐ですが、戦争は最大の人権侵害です。カントも前提としているとおり、死傷するのは一人一人の人間で、市民に対する攻撃が発生すると、日常の生活が一気に失われることは、近時のガザやウクライナの情勢を見ていればわかります。悲惨な一人一人の経験を見つめて、ある意味追体験し、それを基礎にして次の戦後90年、100年に向かっていくことが肝要なのかもしれない、と感じています。
