1 労働審判利用者の減少傾向
2006年に労働者と使用者との個別労使紛争を迅速かつ実効的に解決するため裁判所で行われる労働審判制度が導入されました(2025年は制度運用開始から20年の節目)。
この制度の特徴は、通常の裁判とは異なり、裁判官1名(審判官)+労働関係の専門家2名(審判員)で構成される労働審判委員会が判断をすることです。
申立件数も2009年以降は毎年3000件を超えて高止まり傾向が続き、司法制度改革で最も成功した制度とも評価されています。
ですが、近年、制度運用に対する否定的な見方も増えています。申立件数も2020年をピークに減少傾向で、例えば東京地裁本庁は2020年1136件から2024年888件にまで減少しました。
この背景には、制度の中核的利用者である労働者側の弁護士の、労働審判制度に対する不満・失望という意識の変化があります。私自身も例外ではなく、特に権利関係の判断が明白な事案(本来制度創設時には利用が想定されていた事案類型)で、労働審判は選択肢から外して訴訟を選ぶことが増えました。
その大きな理由が、制度運用時、審判委員会が「権利関係の判定」を十分に行わず、(労働者側からみて)事件の解決水準が極めて低いことです。解雇が有効かどうか明確に判断せず双方合意できる解決金額の交渉に入る解雇事案、残業代請求で十分な証拠があっても遅延損害金未算入どころか元金をも下回る解決金額が提案される事例などもあります。
こういった運用に対する不満・失望から、依頼者である労働者にとって通常訴訟を選択した方が好ましいと判断し、労働者側の弁護士、特に専門性をもって労働者側の事件に取り組む弁護士が、労働審判の利用を避ける傾向があります。
2 審判員への書証交付の不備
権利関係の判定を避ける運用を生み出す要因の一つとなっているのが、長年指摘されつつ放置されている審判員への書証交付の不備でしょう。多くの裁判所で、審判員に専用の書証を交付せず手続を進める運用が続き、審判員が自身の手元に証拠を置き検討をできず期日に臨むケースもみられます。証拠は審判員の自宅に予め郵送されず、審判委員会3人分の記録も準備されず、やむなく審判員は(日当を払われないのに)期日の前に裁判所に赴いて証拠を確認するという運用も(「自発的」行為であっても、無賃労働が公務職場で許されてはなりません)、多くの裁判所で長年行われています。
証拠も見ずに、権利関係の判断ができるはずがありませんし、やってはいけません。証拠が手元にないままでは、審判員(審判委員会の3名中2名)はその資質能力を発揮できず、権利関係の判定が曖昧なまま調停に進んでしまうのは必定です。
とはいえ、この課題には希望もあります。現在、民事訴訟全般のIT化の整備が進み、労働審判申立も紙を用いずオンラインの申立が原則となります。証拠もデータ化され裁判所に提出されるようになるため、審判員各自がタブレット等で証拠を閲覧できるようにして、証拠にどこからでも容易にアクセスできる環境整備も可能となります。
3 弁護士費用の負担感
弁護士費用の負担も制度利用が避けられる一因です。
制度上は弁護士に依頼せず労働者本人が申立も可能ですが、実際の手続は専門性も高く、弁護士の関与がほぼ必須で、労働者は弁護士費用が大きな負担となっています。労働審判制度の利用者に対し行った「労働審判制度についての意識調査」(東京大学社会科学研究所、2020年)では、労働者の4割以上が弁護士費用を「高い」と感じると回答しています。労働相談の現場感覚でも、費用が申立を断念する理由となっているケースも珍しくありません。
かといって、労働者側の弁護士が、労働者に高い弁護士費用を支払わせている訳でもありません。先の調査では、使用者側の平均費用(86.7万円)に対し、労働者側は約半分の49.2万円です。同じ事件でも労働者側で事件を担当すると得られる報酬が圧倒的に少ないという実情で、労働者側の弁護士が事件を担当しています。労働者の味方という「やり甲斐」アピールだけでは、労働者側の立場で活動する弁護士を増やせません。
他方で、個別労使紛争に直面した労働者で、資力が乏しい方は珍しくありません。そういった方でも、労働審判が利用できるようにするには、
①解決水準の引上げ(成功報酬が引き上がれば労働者側の弁護士が受任しやすくなりますし、労働者の負担感も少ないでしょう)
②法テラス制度(現状は弁護士側からすると使いにくいと評判の悪い制度)の改革や、民間の弁護士費用保険制度の拡充
③弁護士ではなくても代理人として活動できる許可代理制度の活用(現在、制度はあっても殆ど活用されていない)
④生成AIの活用により労働者本人が申立をする場合が増えるはずでその支援体制の構築
など、対策が必要でしょう。
4 さいごに
労働審判制度がもつ潜在的な制度の魅力は今も消えていませんが、新たな制度を維持しようという関係者の意欲だけでは、制度創設から20年が経過して大きく社会も関係者の意識も変革している中、制度を発展させることはできないでしょう。
申立件数の減少という現実を踏まえて、社会の変化にも対応し、制度の本来持つ可能性と実効性を高めるための改善策を講じるべき時期にきているのではないでしょうか。