昨年11月、大学同級生から個展(銅版画)の案内をもらい、その最終日になんとか間に合った。
「少年時代からの夢想や空想を基に、平和や安全を願う人々の姿」を描いたとのこと。一つの世界がそこにはあり、根底には深い思索があるのではと思ったが、どういうはずみか、詳しい話を聞くことなく、鉄腕アトムを描いた手塚治虫がいかにすばらしかったかという話で盛り上がってしまった。
リモートコントロールで操縦される「鉄人28号」ではなく人間と同じように振る舞う「鉄腕アトム」、そしてそれがAIや生成AIのもとで現実化してきていること、そんな話であった。
鉄腕アトムといっても知らない人が増えているのだろうが、小学生の私は、「少年」という雑誌の連載や単行本で「鉄腕アトム」を夢中になって読んだ。
1963年にアニメ化されたが、その主題歌は谷川俊太郎作詞で、「心やさしい ラララ 科学の子」と明るい。しかし私の鉄腕アトムは、天馬博士により幼くして交通事故死した息子にそっくりなロボットとして生まれたが、成長しないアトムに苛立った博士にサーカスに売り飛ばされた生い立ちをもち、お茶の水博士に救われたもののひどい人間たちといつも戦っていかなければならなかった少年だ。そしてロボット差別、ロボットたちの反乱と自律、科学の悪用といった問題は、その底にずっと流れていた。
アトムが人と同じような知恵も感情も持つことに違和感はなかったが、そのようなロボットが近い未来に実現する可能性はないだろうと思っていた。
ところが、内閣府のホームページに<ムーンショット目標>というのがあり、その3には、次のような記載がある(*1)。
「2050 年までに、AI とロボットの共進化により、自ら学習・行動し人と共生するロボットを実現」
「人が違和感を持たない、人と同等以上な身体能力をもち、人生に寄り添って一緒に成長する AIロボットを開発する。」
「自然科学の領域において、自ら思考・行動し、自動的に科学的理・解法の発見を目指す AIロボットシステムを開発する。」
これが実現するとなると、鉄腕アトムの世界や、もっと時代が前の作品、チャペックの「ロボット(R.U.R)」(*2)とそう遠くないように思える。
人間より優れた能力を持つことを自覚したロボットは、なにを考えるのだろうか。
人間を劣っていると見るのか。自分より優れたロボットが作られることを許容するのか。オルダス・ハクスリー『すばらしい新世界』で人間が「孵化・条件づけセンター」において決められた階級に合わせて体格も知能も作り上げられたのと同様にロボットの間にも階級をつくるのだろうか。
科学技術の発展は、原水爆などの大量破壊兵器を生んだだけではない。
たとえば、インターネットには新しいコミュニケーションとの期待があったが、SNS依存症、闇バイト、ニュースや画像の偽造や大規模詐欺、ランサムウエアなどの問題をもたらし、デジタル通貨は中央銀行のコントロールを超えるシステムをつくろうとしている。
そして、科学者の倫理と社会的責任の問題は、さして議論されることなく、倫理、道徳、宗教などによる制約は薄らいできているようにみえる。軍拡競争のように「科学技術の発展」が進んでいき、人間が長い進化の過程で獲得した能力を超えていくのではないか。
こんな心配とは裏腹に、新しい科学的知見や技術が日々生まれていくことにどきどきするような気持ちになってしまうこともまた事実である。
…平和、安全な世であれかし。
*1 ムーンショット型研究開発制度が目指すべき「ムーンショット目標」について(令和2年1月23日 総合科学技術・イノベーション会議)
なお、同会議は、経済財政諮問会議、国家戦略特別区域諮問会議、中央防災会議、男女共同参画会議と並び、内閣府の、関係大臣と有識者からなる重要政策に関する5つの会議(重要政策会議)の1つ。
目標3のプログラムの紹介もある(html)(pdf)。
*2 岩波文庫(「ロボット(R.U.R)」)に和訳があるが未見。青空文庫に「RUR――ロッサム世界ロボット製作所」(大久保ゆう訳)があるが、英訳からのもので、原著からかなりの省略があるらしい。