「高等教育無償化」とは何か/西川治(事務所だより2018年1月発行第56号掲載)

 最近、「高等教育無償化」が政策課題として浮上し、注目を集めるようになっています。
 しかし、残念ながら日本ではこれまであまり注目されてこなかったテーマでもあります。

 今回は「高等教育無償化」について取り上げます。

    「高等教育」に高校は含まない!

 「高等教育」は、現在の日本の学校制度では大学(短大を含む)や専門学校での教育をいいます。

 高等教育に関するよくある誤解の1つは、高校も高等教育であるというものです。現在の高校は後期中等教育と呼ばれ、高等教育ではありません。

 学校の呼び方は国や時代によって異なりますから、比較のために教育段階を分類し、初等教育、中等教育、高等教育と呼んでいます。初等教育は小学校、中等教育は中学校・高校、高等教育は大学や専門学校です。中等教育を前期(中学校)と後期(高校)に分けることもあり、幼稚園を初等前教育ということもあります。ISCED(International Standard Classification of Education:国際標準教育分類)というさらに詳しい分類も作られています。

 日本では終戦後の学制改革まで、旧制中学校が中等教育を担い、旧制高等学校はのちの大学の教養課程のような位置付けで、高等教育機関でした。
 しかし、学制改革の際、旧制高校の機能は大学の教養課程に継承され(旧制一高は東京大学教養学部となりました。)、旧制中学が高等学校に名前を変えて存続したため、「高等学校」は高等教育機関ではなくなりました。

 数年前、国立国会図書館で「高等教育」の棚に高校教育の本が置かれていることがありましたし、先日安倍首相が施政方針演説で高等教育の無償化を読み飛ばした際、ニュースの見出しに「高校無償化」を読み飛ばしたと載るなど、よくある誤解です。

 余談ですが、学校の種類は学校教育法に規定があり、幼稚園、小学校、中学校、義務教育学校、高等学校、中等教育学校、特別支援学校、大学、高等専門学校(以上同法1条)、専修学校(同法124条)、各種学校(同法134条)と分類されています。

 あまりなじみのない「義務教育学校」「中等教育学校」はそれぞれ小学校と中学校、中学校と高等学校を合わせて1つの学校にしたものです。いわゆる小中一貫校、中高一貫校の多くは、法律上、小学校と中学校、中学校と高校という2つの学校を併設したものですが、中には法律上も1つの学校となっているものがあり、それが「義務教育学校」「中等教育学校」です。

 また、短期大学は大学の一種(同法108条)、高等専修学校、専門学校は専修学校の一種(同法126条)です。

    国際人権規約と「教育無償化」

 1966年に国連総会で採択され、1976年に発効した国際人権A規約(社会権規約)は、13条1項において教育についてのすべての者の権利を認める、としています。

 そして、同条2項は、教育についての権利の完全な実現を達成するため、(a)で初等教育は無償とし、(b)で中等教育に無償教育を漸進的に導入することを定めたほか、高等教育についても(c)で無償教育を漸進的に導入すること、(e)で適当な「奨学金」制度を設立することと定めました。
 「漸進的」とは「次第に」という意味ですから、初等教育のようにただちに無償にする必要はないものの、無償にする方向で政策を進めなければならない、といった意味になります。

 これらは決して理念的なものではなく、1960~70年代には欧米諸国で実際に無償教育の導入が進んでいました。

 アメリカでは1965年の高等教育法で給与・貸与の奨学金制度が整備され、授業料が低廉又は無償の州立大学、コミュニティカレッジ(公立短期大学)が拡大しました。
 ドイツ、フランスは1960年代後半、オーストラリアは1974年に大学の授業料を廃止。
 イギリス(イングランド)でも、「授業料」という名目は残りましたが、給付制奨学金として国が負担していたため学生の負担はなく、国が各大学に交付する補助金(の学生当たりの単価)となっていました。
 また、共産主義を標榜する諸国ではそれ以前から授業料無償や給付制奨学金が導入されていました。

 このように、無償教育の導入が現実に進んだ時期に、国際人権規約は高等教育における無償教育の漸進的導入を定めたのです。

 ちなみに、国連総会での採択に先立って条文を審議した委員会において、日本政府代表は高等教育での漸進的無償化を含む(c)、「奨学金」制度の設立を含む(e)の採決では棄権しました(13条全体、国際人権A規約全体の採決では賛成)。

    日本における高等教育の「急進的有償化」

 日本は1979年に国際人権A規約を批准したものの、13条2項(b)、(c)の中等・高等教育における無償教育の漸進的導入の部分には従わないことを宣言しました(「留保」といいます)。

 日本では、1975年頃から国立、私立とも大幅な大学学費の値上げが始まっており、1979年の国立大学の授業料は5年前(1974年)の4倍、10年前(1969年)の12倍となっていました(物価上昇を加味しても約2.8~5.1倍、私立大学は物価上昇を加味して約1.2~1.6倍)。
 この大幅な学費値上げは2000年代半ばまで続き、これを「漸進的無償化」と相反する政策であるとして、「急進的有償化」と呼ぶ人もいます。

 「急進的有償化」とまでいうかはともかく、日本は高等教育について漸進的無償化とは違う政策を採っており、そのような中で国際人権A規約を批准するにあたって中等・高等教育における無償化については留保を宣言したのです。

 もっとも日本では高等教育への進学希望者が多く、学費の上昇にかかわらず入学定員を増やせば増やすだけ進学者も増えるという状況が続きました。親の賃金が上昇を続けていたことや大卒者の雇用が比較的安定していたこと、さらには高卒者の求人が激減し高卒就職が容易でなくなったことなどが背景にあるとみられますが、いずれにせよ「漸進的無償化」が現実的なテーマとして議論されるには至らない状況が続きました。

 なお、日本は13条2項(e)には留保を付していません。(e)は日本語訳では「適当な奨学金制度を設立」とされており、そのまま読むと日本学生支援機構(当時は日本育英会)の奨学金制度があるので、一応問題がなさそうに見えます。

 しかし、正式版である英文でこの部分は”an adequate fellowship system shall be established”とされており、”fellowship”は返還を要しない給付制の奨学金を意味しますから、公的奨学金制度が貸与制のみであった2016年度まで、日本は国際人権A規約13条2項(e)には違反していたこととなります。

 日本は返還不要の給付制奨学金、返還を要する貸与制奨学金を区別せずに「奨学金」と呼ぶ珍しい国です。英語では給付制をscholarship、grants、fellowshipと呼び、貸与制はstudent loanといいます。フランス語ではbourse/pret、中国語では助学学金/助学款などと使い分けています。

 「奨学金」=scholarshipはよくある誤解であり、日弁連の作成した国連への報告書でもそのような「誤訳」があります。返済しなければならない貸与制の「奨学金」をscholarshipと訳すと正しく理解されません。

    日本の政策転換

 国立大学の入学金・授業料は2006年以降据え置きが続き、同時期以降、私立大学も入学金・授業料・施設設備費の合計額平均でみると、130万円を少し超える程度で落ち着いています。

 そして、民主党政権は国際人権A規約の漸進的無償化に関する「留保」を撤回することを決め、2012年9月に正式に撤回しました。以後、日本は国際人権A規約に基づいて無償教育の漸進的な導入を進める義務を負うこととなりました。

 民主党政権下では、中等教育については公立高校の授業料が無償化され、私立高校への就学支援金制度も創設、高等教育についても国立大学の授業料免除枠(授業料免除用に予算措置がなされる割合)は2002~2009年度まで5.8%でしたが、2010年度予算以降6.3%、7.3%、8.3%と増加、私立大学の授業料免除への補助も増え、無利子奨学金枠の拡大や返還負担軽減制度の拡充などが行われています。

 自公連立政権に交代後も、高校無償化は一部後退しましたが、高等教育について授業料免除や無利子奨学金枠の拡大は継続しました。

    そして「高等教育無償化」?

 近時、政府や自民党内から、「高等教育無償化」という言葉が聞かれるようになりました(ちなみに、自民党より先に、民主党や日本維新の会が教育基本法や憲法に高等教育無償化を盛り込むべきと主張していました)。

 日本では、ほんの約10年前まで学費は上昇を続けていました。ところが、学費を引き上げる政策を進めた政党が今度は大学を「無償化」しようというのですから驚くのも無理はありません。

 しかし、可処分所得は1997年をピークに下落し、20年間の減少額は私立大の年間授業料に匹敵する約81万円になっていますから、大学の学費は親が負担するのが当たり前(そしてさしたる苦労なく、又は苦労は伴うものの多くの親が負担できる)という時代は過ぎ去っています。いまや高等教育機関の学生の4割が大学や専門学校等の学費を親の仕送りと本人のアルバイトだけでは賄えず、日本学生支援機構の奨学金を利用しています。

 「高等教育無償化」が政策課題として取り上げられるようになったことは、それ自体として歓迎すべきでしょう。

 もっとも、看板こそ「高等教育無償化」ですが、当初検討されたのは学費の「出世払い」でした。

 弁護士らしく法律の話を少し書くと「出世払い」という約束は「不確定期限」である、つまり「出世したときから返せと請求でき、出世しないと決まったときも返せと請求できる」という趣旨であって、出世しないときは返さなくてよいという趣旨ではない、とした判例があります(大審院判決大正4年3月24日。大審院は戦前の最高裁判所)。

 今回検討されていた「出世払い」は、卒業後の課税所得に応じた額を返済するというもののようです。たしかに学費を在学中に払わなくて済むという意味では負担は軽くなりますが、いずれ返済するため「無償化」とは言えないでしょう。

 本稿執筆時点では「出世払い」は見送りの方向で、実際に「無償」になりそうなのは住民税非課税世帯に限られるようです。しかも、国立大学の授業料免除基準では、いまでも予算不足がない限り住民税非課税世帯は全額免除になりますから、私立大学や専門学校が対象に入るか、給付制奨学金がどの程度まで拡大するか、そして成績基準がどうなるか、というところに注目しなければ、ごく限られた範囲の「無償化」にとどまるおそれがあります。

 もちろん、住民税を課税されている世帯には何も影響がありません。

 「高等教育無償化」というと、だれでも大学や専門学校の学費がタダになりそうな気がします。少なくともいま検討されている内容は「看板に偽りあり」でしょう。

 それでも、低所得世帯の高校生は、成績が同程度の中・高所得世帯の高校生に比べて進学を断念し、又は最初から進学を希望しない割合が高くなっており、まさに「お金がないから進学しない」という状況が生じています。まずは生活保護世帯や住民税非課税世帯という明らかに高等教育の学費負担が困難な世帯を対象として手厚い支援をするということは間違っていないと考えています。

    高等教育無償化の時代から知恵を絞る時代へ

 欧米諸国では、1960~70年代に高等教育の無償化が進んだことは先ほど述べました。

 しかし、欧米諸国の高等教育における学費政策はその後さまざまに分化しています。

 アメリカは、私立大学を中心に授業料が高騰する一方、給付・貸与の奨学金制度を充実させています。たとえば、ハーバード大学の年間授業料は約500万円で寮費等の生活費を含め年約770万円が必要ですが、親の年収が約700万円以下であれば成績を問わずそのほぼ全額に相当する奨学金が給付されます。もっとも、中堅以下の大学ではそれほどの財政基盤がないため、かなり高額の貸与奨学金(ローン)を負うことになります。給付制奨学金も経済状況を問わず成績がよい学生に出すものが増え、教育の機会均等のために意味があるのかと批判されています。

 イギリス、オーストラリア、ニュージーランドは、高等教育進学率の上昇により政府の財政負担が重くなり、授業料の徴収を再開しました。しかし、在学中に支払う義務はなく、卒業後に年収の一定割合を返済していきます。収入が少なければ返済は不要で、出世しなければ返さなくていいという寛大な「出世払い」です。

 ドイツやフランスは授業料無償を維持していますが、その分高等教育機関をなかなか増やすことができず、進学率の上昇は他の国に比べて緩やかです。また、生活費への援助にあたる給付・貸与の奨学金を受ける学生の割合も少なくなっています。

 北欧は高等教育進学率が高くなっても授業料無償を維持し、生活費のために奨学金を広く給与・貸与しています。ただし、その財源として税負担が重いことは周知のとおりです。

 以上のように、欧米諸国は1960~70年代に高等教育無償化を進めたものの、高等教育進学率の上昇、政府財政の悪化を受けて、単純に学費を無償にすればよいという時代は終わり、お金のあるなしで高等教育への進学の機会が左右されないよう、国ごとに知恵を絞るという時代になっています。

 知識基盤社会といわれる現在、高等教育への進学の機会を確保することは、人権保障であると同時に、社会・経済の将来に対する投資でもあります。高等教育修了者は高い収入を得やすいため、本人の経済的成功のための私的投資という面もありますが、その機会が均等でなければ、公正な競争とはいえないでしょう。だからこそ、多くの先進国は苦しい財政状況の下でもさまざまな工夫を凝らしているのです。

 私は、日本でも単純に大学や専門学校の学費をタダにすればよいというものではないと考えています。

 例えば、様々な調査から家庭の経済状況に恵まれた子どもは、そうでない子どもに比べてよい成績を得やすいということが分かっています。東大生の親の平均年収は1000万円を超えています(2014年調査で1068万円)。

 大学の学費をタダにするという政策はわかりやすいのですが、中卒や高卒で働いている若者は働いて納税していることとのバランスも問われます。

 経済状況が厳しく進学を諦めたり、アルバイトに追われ学習時間をかなり削っているような学生のための経済的支援は必要ですし、そのような学生も相当程度いるのですが、親の仕送りで豊かな学生生活を送れるような学生まで学費をゼロにすることが優先課題だとは思えません。そのお金は、家庭の経済状況による成績等への影響を小さくするために使うべきです。

 「看板に偽りあり」とはいえ、現政権が「高等教育無償化」を掲げたことで、高等教育の学費負担に対する関心が高まっていることは歓迎すべきことです。

 これを機会に、日本社会・日本経済の今後のありようも含めて、高等教育の費用負担についての議論が深まり、少しでも家庭の経済的状況で教育の機会が左右されない社会へ進むことを期待しています。