窃盗癖(クレプトマニア)/石渡豊正(事務所だより2018年1月発行第56号掲載)

 Tさんは、窃盗罪(万引き)で2度の執行猶予付き判決(懲役刑)を受け、しかも2度目の執行猶予は保護観察付きでした。その2度目の執行猶予中に、再び万引きを行いました。

 Tさんには数百万円もの十分な預金があります。それに対し、万引きした商品は合計約1900円。次に万引きで捕まれば懲役の実刑を受けるであろうことも理解していました。それでも万引きをしてしまったのです。得られる利益と失うものの大きさがあまりにアンバランスで、Tさんの動機はどうしても理解できません。

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 医学の分野では、「窃盗癖」という病名があり、その診断基準があります。
 例えば、アメリカの精神医学会は、以下のような診断基準を定立しています。

 A 個人的に用いるものでもなく、またはその金銭的価値のためでもなく、物を盗もうとする衝動に抵抗できなくなることが繰り返される。
 B 窃盗に及ぶ直前の緊張の高まり
 C 窃盗を犯すときの快感、満足、または解放感
 D 盗みは怒りまたは報復を表現するためのものでもなく、妄想または幻覚に反応したものでもない。
 E 盗みは、行為障害、躁病エピソード、または反社会性人格障害ではうまく説明されない。

 もっとも、万引きを繰り返す人のほとんどは、盗んだ物を食べたり、使用したりしますので、上記基準Aをそのまま適用すると、「窃盗癖」と診断される人は非常に限られます。上記基準(特に基準A)は制限的すぎて臨床的応用は困難であるとの医師の指摘もあります(竹村道夫「窃盗癖患者の臨床-犯罪行為か精神症状か、司法との関わり-」・アディクションと家族第30巻1号23頁)。Tさんも、万引きしたものを飲食したり使用することがありましたから、上記基準によれば「窃盗癖」に該当しないこととなります。

 刑事裁判においても、上記基準Aを厳格に適用して「窃盗癖」を否定する鑑定や医師の意見書が提出され、「窃盗癖」とは言えないことを重要な理由の1つとして懲役の実刑に処する判断がなされた例もあります。

 しかし、万引きを繰り返す原因は、商品を見てとっさに生じる万引きへの衝動を抑えることができない点にあります。刑事裁判で使う用語で言えば、行動制御能力の障害です。上記基準Aを満たさなくとも、万引きへの衝動が抑えられずに万引きを繰り返してしまう人がたくさんいます。根本的な原因である行動制御能力の問題を正面から検討せずに、「窃盗癖」の診断基準を機械的にあてはめて、「窃盗癖」という病名をつけられるかどうかだけを判断していては、刑事罰を科すことがふさわしいのかどうか、刑事罰を科すとしてもどのような刑罰を科すべきか、という刑事裁判において必要な判断を適切になし得ないと思われます。

 被告人の病歴、犯行の状況及び被告人の置かれた環境などをもとに、行動制御能力に関する慎重な判断を行い、その深刻度合いを検討することこそ、この種の事案において本当に必要なことだと思います。

 そして、万引きを繰り返してしまう人については、行動制御能力の問題を解消すべく、基本的には刑罰ではなく適切な治療を優先させるのが賢明です。

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 窃盗癖を専門的に治療する医療機関はまだまだ少ないのが現状で、一部の医師に患者が集中し、対応能力の限界が危惧されます。

 他方、弁護士の方も、窃盗癖に関する十分な知見をもっている人は少ないと思われます。私も、Tさんの弁護をするに際して、初めて窃盗癖の勉強をしました。捜査段階の早い時期から被疑者の窃盗癖を疑い、適切な医療機関へと誘導できるように、また、裁判において有効な刑事弁護ができるように、行動制御能力の問題を含めて窃盗癖に対する理解を深めていかねばなりません。

 Tさんの弁護を通じて、医療と司法の双方で、窃盗癖患者に対する適切な対応がなされるよう環境の整備が必要だと考えさせられました。

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 なお、私が担当したTさんは、第一審において、罰金刑となりました。
 刑事裁判が始まってから専門的な医療機関に通院を始めたことが、罰金刑へとつながった大きな要因だと考えています。

 「今後も通院を続けたい」と、Tさんが力強くおっしゃっていたのが印象的です。