書評『うつ病休職』/山岡遥平(事務所だより2017年9月発行第55号掲載)

    唐突ですが、精神科医の中嶋聡先生の書いた『うつ病休職』(新潮新書、2017年)の書評を通じて、思うところを書こうと思います。

 さて、本書は、裁判でも、労災でも、医師の中でも一般的に使用されているDSMⅤやICD-10の診断方法を批判し、「経験ある精神科医」の見て取る「質的」違いを重視する(90-91頁)という、(現在においては)一種独特の考えに立っています。そして、この考えに基づき、本来「うつ病」ではない人も「うつ病」と診断する医者が増えており、その診断を利用して、使用者側も労働者側も本質的な問題から逃避し、医者すらその構造に乗っている、と主張します。また、そのような構造を回避するため、著者は抑うつ反応等を「苦悩」としてうつ病等病気と区別し、前者にはむしろより患者側に積極的な回復への取り組みを求め、それを助けるとしています。そして、苦悩の解決には、患者の「主体的決定の余裕が残されている」と著者はいいます(171頁)。

 「おわりに」を読めば、著者のこのようなアプローチは、著者の職業倫理と矜恃に裏打ちされていることがみてとれます。また、うつ病の診断拡大が、電通事件他によって過重労働の現場に衝撃を与えたことと、その社会的意義は十分認める一方で、(著者の考える)本来の診断をつけたうえで「それを引き起こしている環境因として労務問題を位置づけ、エンパワーメントや労務担当者との連携を含めたきめ細かな治療を工夫していく必要がある」(191頁)と述べていることからも、このアプローチが十分自覚的なものであると評価できますし、解決策自体は妥当なものと評価しうるものです。

 その一方で、どうしても、私からみれば、著者の主張する「主体的決定」は、現実的に困難なもので、診断を拒否し、突っぱねてしまうことで問題を遷延させるものではないかという疑念が生じます。

 著者は、失敗例として、本人の「理解力の問題や性格的な頑固さが災いし」て労働問題についての知識を得られなかったため、本人が退職してしまった例を挙げています(156-165頁)。この件を、失業保険の問題等を「治療の中で触れながら、どうするのが一番良いか」「落ち着いて考えてもらいたかった」が、著者の「余裕のなさへの考慮が足り」(164頁)なかった、とまとめています。

 しかし、私は、「考慮」が足りないという以上に、上記の「主体的決定」が可能で、電通事件(最判平成12年3月24日民集54巻3号1154頁)の自殺について、自殺の任意性を認めないことは「損害賠償においては、責任割合が変わってしまうのですから、社会的公正を欠く」「過失相殺がなされないということは、考えられないこと」(128頁)と考える、自己責任論的な考え自体が、上記失敗の原因ではないか、と考えます。

 労働者と使用者の力の差は、法律があろうとも、現実的には大きなものです。ひとたび解雇や減俸がされれば、生活に大変な影響が出てしまうからです。そのような中で、自身が上司と直談判するとか、役所や弁護士に相談するとか、そういった「主体的決定」は困難で、やってしまうと軋轢を生じるのではないか、という心配があって当然です(実際は、弁護士に相談した場合、軋轢が生じない方法をとることや、問題を顕在化するタイミングを計ることは行います)。

 そこで、まずは行っても不自然ではないお医者さんのところに駆け込む、という事情もあるでしょう(もちろん、著者の指摘する、労使の責任逃れがあることも事実でしょうが)。ここで病気であることを否定すると、「場合によっては家族を含む周囲の人間が、医師から「怠け」という「お墨付き」を得ることで、患者に対して一層批判的にな」り、「「医原性」の増悪を招く」(斉藤環『承認をめぐる病』202頁、ちくま文庫、2016年)こともありうるのです。

 現実の人々は、状況の制約の中、様々な解決手段を望んでいます。その一つが医師であり、弁護士です。職業上、できること、できないことがあり、できないことはできない、とはっきり言わなければなりませんが、「主体的決定が可能」だといって、(単なる「余裕のなさ」ではなく、その根本である)労働者の置かれた厳しい現実の力関係、生活の不安を十分考慮せずに相談に応じることは避けなければなりませんし、考慮が不十分な論には厳しくあたらなければならないでしょう。或は労働者の現実の考慮が不十分な考え方そのものが、過労やうつ病を生んでいる可能性すらあります。

 逆説的にですが、私自身も、相談に来た方の生活など、現実の不安を受け止めて仕事にあたらなければいけない、と改めて思わされました。

 批判的な評になってしまいましたが、現行の診断基準に批判的な医師の見方や、経営側の弁護士の考え方も載っていて全体としては興味深い本です、ということは最後に述べておきます。