第90回帝国議会会議録と日本国憲法/田中誠(事務所だより2015年9月発行第51号掲載)

news201509S 最近ありとあらゆる情報がネットで入手できるようになっている。
 むろんネット情報には真偽の保証がなく、レベルもいろいろだが、発信元の性質等を注意したり、複数のソースから照らし合わせたりしていけば、かなりの精度の情報が得られる。

 日本国憲法制定過程の国会論議なども、ネットで国立国会図書館の「帝国議会会議録検索システム」などを用いれば、実際に図書館に行かなくてもつかめる。
 日本国憲法(以下「現行憲法」)が、「押しつけられた憲法」というのが、復古的改憲論者ないし最近はやりの「解釈改憲論者」の発想の根底にあると見られるが、ネットで会議録を淡々と読んでいくだけでも「押しつけられた憲法」との見方が無理筋なことがわかる。

 ナチス統治を絶対的に排除する必要のあったドイツとは異なり、わが国占領においては「間接統治方式」が取られ、敗戦までの権力者層も、その統治構造も、軍ほか一部を除き基本的に温存された。
 大日本帝国憲法(以下「明治憲法」)も直ちに廃止されたわけではなく、帝国議会も存続した。そして、現行憲法は、帝国議会において、明治憲法の改正手続によって制定されたのである。
 明治憲法は、それ自体、主権者天皇による恣意的な改正を排除しており、帝国議会の3分の2以上による議決が必要とされていて、19世紀水準の憲法としては、それなりのものだったのだが、この明治憲法73条の改正手続を踏んで現行憲法は成立している。

 憲法改正の論議に先立ち、敗戦後まもなく招集された第89回帝国議会(昭和20年11月26日~12月18日)では様々な戦後改革が決定されたが、その中で、わが国史上はじめて女性参政権を認める選挙法改正が行われた(昭和20年法律第42号)。
 そして、スクープされた松本委員会の憲法改正案、さまざまな民間憲法改正案、それらを研究したGHQの指導を受けた政府の「憲法改正草案要綱」(昭和21年3月6日)など憲法改正論議がなされる中、憲法改正の内容をも争点として、昭和21年4月10日、はじめて女性が投票に参加する普通選挙としての帝国議会衆議院選挙が行われた。
 選挙後、わが国史上はじめて民主的に選ばれたといえる衆議院議員と、温存されていた貴族院議員らによる第90回帝国議会(昭和21年5月16日~同年10月11日)が開かれ、そこで、明治憲法の改正が議決され、現行憲法が制定されたのである。

 まず、憲法改正案は、衆議院での活発な議論の末、昭和21年8月24日に、記名投票で、賛成「白票」・反対「青票」という衆議院伝統の投票方式で議決されたが、白票421に対し、青票は8だけであった。
 貴族院で一部の修正がなされたが、貴族院では同年10月6日に原案に起立投票とされ「議長(公爵徳川家正君) 三分の二以上と認めます、仍て原案通り可決せられました(拍手起る)」として議決された(具体的票数は数えられていない)。
 貴族院修正を受けて、同月7日、衆議院で再度投票がなされたが、今度は起立投票とされ「議長(山崎猛君) 五名を除き、其の他の諸君は全員起立、仍て三分の二以上の多數を以て貴族院の修正に同意するに決しました(拍手)之を以て帝國憲法改正案は確定致しました(拍手)」として、現行憲法への改正が確定した。

 衆議院の最初の投票で反対した8名、最後も反対した5名はどういう人々なのかを見ると、最初の8票は記名投票であるから会議録に明記されていて「穗積七郎君 細迫兼光君 柄澤と志子君 志賀義雄君 高倉輝君 徳田球一君 中西伊之助君 野坂參三君」の8名である。
 うち、穂積氏・細迫氏を除く6名は全て日本共産党の議員で、かつ共産党会派の全員である。野坂参三議員は、衆議院で会派としての意見として(8月24日)、現行憲法への改正案に反対の立場を明言しており、会派一致しての青票は当然の帰結であった。
 その流れからして、貴族院修正後の衆議院で起立しなかった5名も共産党の議員であることは間違いがないであろう。
 これには、今から思えば意外な感じもするが、当時の共産党の、現行憲法への反対理由は、「天皇制の維持への反対」「自衛戦争も否定する憲法9条に反対」というものであり、当時の社会主義者としては筋の通らないものではなかった。
 議論の経過を見るならば、衆議院・貴族院とも議論は活発で、共産党の議員が堂々と反対していたのもそうだし、逆に、貴族院で比較的保守派の議員が臆することなく「家族生活はこれを尊重する」という「イエ制度」の温存をイメージさせる修正案を提起し、記名投票の上否決されるなどもしていた(この条文は、約70年後に自民党改憲案として復活してくることになる)。

 このように、現行憲法は、女性を含めた初めての民主的な普通選挙で、憲法改正をも争点として選ばれた衆議院議員を中心に、活発な議論の末、(衆議院では)共産党を除くほぼ全会一致で可決され、貴族院も衆議院に追随していたというものであった。
 これで「押しつけ憲法」というのはいかにも無理筋ではないか。共産党の議員が正々堂々と反対できるものに、「押しつけられて反対できなかった」とはいえまい。

 10月7日の衆議院決議を受けて、吉田茂首相は、議長に発言を求めている。
「國務大臣(吉田茂君) 只今貴族院の修正に對し本院の可決を得、帝國憲法改正案はここに確定を見るに至りました(拍手)此の機會に政府を代表致しまして、一言御挨拶を申したいと思ひます、本案は三箇月有餘に亙り、衆議院及び貴族院の熱心愼重なる審議を經まして、適切なる修正をも加へられ、ここに新日本建設の礎たるべき憲法改正案の確定を見るに至りましたことは、國民諸君と共に洵に欣びに堪へない所であります(拍手)惟ふに新日本建設の大目的を達成し、此の憲法の理想とする所を實現致しますることは、今後國民を擧げての絶大なる努力に俟たなければならないのであります、政府は眞に國民諸君と一體となり、此の大目的の達成に邁進致す覺悟でございます、ここに諸君の多日に亙る御心勞に對し感謝の意を表明致しますると共に、所懷を述べて御挨拶と致します(拍手)」
 この挨拶にも「押しつけられた」感はない。

  その後、現在に至るまで、護憲派の一部には「権力者にとっては押しつけだったが、国民にとっては押しつけではなかった」とか、「内容がすばらしいから押しつけかどうかは関係ない」とか「押しつけられてよかった」などとして、現行憲法を擁護する人が相当数いた。
 しかし、これらはやはり粗雑な論理であり、そうではなく、「権力者にとっても、国民にとっても押しつけではなかった」というべきである。