過労死防止法の施行/野村和造(事務所だより2015年1月発行第50号掲載)

news201501_small 平成26年11月1日、過労死等対策防止推進法(過労死防止法)が施行された。
 この法律は、次のような内容を持つ。
    ・国、地方公共団体の、過労死等防止対策対策推進の責務
    ・国による実態調査、調査研究等
    ・国や地方公共団体による啓発活動
    ・被災者や遺族の声の反映(過労死等防止大綱作成にあたり、意見を述べる協議会メンバーに被災者や遺族が加わる)

 この法律だけで過労死・過労自殺の予防や救済が大きく変化するわけではない。しかし、大きな第一歩である。
 神奈川過労死対策弁護団は、この施行の日、過労死防止を考える集いを持った。
 これまでの集会では考えられなかった神奈川労働局からの挨拶の後、過労死弁護団全国連絡会議事務局長の玉木弁護士の講演、家族の会の方たち、あるいは母親が過労で脳出血を起こしそのため介護士の資格をとった息子さんからの切実な話が続いた。

 1974年頃、私が弁護士になったばかりの時に、朝日新聞の方から過労死に対する取り組みの話を聴いた。残されたお子さんのためにも、そして事実を明らかにし、労災を勝ち取るためにも、追悼文集をつくるのだということだった。

 過労死という言葉が社会に使われるようになったのは1982年と言われているが、当時は労災と認定されるのはごくわずか。1988年の過労死110番発足についても、労災に真面目に取り組んでいる弁護士から、大風呂敷を広げて大丈夫だろうかという声を聞いた。

 しかし、そこに寄せられた痛ましい遺族の方々の切実な声は、家族の会となり、そこから、労働問題としてではなく、市民の命の問題として提起がなされた。
 なぜ、愛する夫、妻、娘、息子は、死ぬまではたらかなければならなかったのか、なぜ未然に防ぐことはできなかったのか、なぜ仕事のために倒れたという現実を企業も行政も認めてはくれないのかと。

 そして、マスコミが取り上げ、裁判が起こされる中で世論が形成されていく。

 裁判官に、世論を背景に事実を突きつけていく中で、まず判決で突破口が開かれ、それが認定基準を変えて行き、そして過労死防止法の施行となった。

 遺族の方々のこれまでの取り組み、医師、労働組合、労災職業病団体、マスコミ、政治家、支援者、多くの関係者の方々の努力の積み重ねを、今改めて思い、そして集会で、涙を流しながら遺族の話を聴いてくれた人々のことを思い出す。

 他方、ワタミの創設者で、当時、教育再生会議委員、神奈川県教育委員会委員だった渡邉美樹氏は、2006年、次のような発言をしたとされている。

「よく『それは無理です』って最近の若い人達は言いますけど、たとえ無理なことだろうと、鼻血を出そうがブッ倒れようが、無理矢理にでも一週間やらせれば、それは無理じゃなくなるんです」「そこでやめてしまうから『無理』になってしまうんです。全力で走らせて、それを一週間続けさせれば、それは『無理』じゃなくなるんです」

 また、奥谷禮子氏は、労働政策審議会労働条件分科会で、使用者側委員として、(過労死問題は)「自己管理の問題。他人の責任にするのは問題」「労働組合が労働者を甘やかしている」と発言した。

 非正規労働が増大する中、若者を使い捨てにするいわゆるブラック企業の横行や、残業代を支払わないようにする動きは、このような考え方が極めて根強いものであることを示している。

 労働法制を使用者に有利に変える動きがますます強まっているが、過労死・過労疾病や過労自殺は、企業にとっても大きなマイナスであるはずだ。

 過労死防止の集いで発言した八木光恵さんから本をいただいた。八木さんは、1987年にクリエーターの夫を奪われ、労災を求め、長年にわたって過労死問題のために心血をそそいだ人だ。その「さよならも言わないで」という本には夫のノートからの抜粋がある。

「かつての奴隷たちは奴隷船につながれて新大陸へと運ばれた。(中略)肉体労働の奴隷たちはそれでも家族と食事をする時間がもてたはずなのに。」

 お金のためだけに、人間の幸せが奪われていいはずはない。

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